こんにちは、鎧谷つかさ(@B5pKUteU1CYpJBM)です。
2020年1月、広島東洋カープは球団創設70周年を迎えました。
この70年の間では色々なことがありました。
球団存続の危機
初優勝からの黄金期
15年連続Bクラスという泥沼の低迷期
25年ぶりのリーグ優勝からのリーグ3連覇など
この歴史の中で、資金力に乏しいカープ球団ならでは、市民球団ならではの苦悩もありました。
その苦悩をさまざまな工夫で乗り越えてきた球団やファン
今回は、工夫や球界のさきがけとなった数々のカープ発祥に注目したいと思います。
今では当たり前となっている○○
他球団も導入している○○
実は、あれもこれもカープ発祥なんです!
カープの『球界初』、『発祥』、『元祖』をど~んと集めてみましたので、紹介していきます!
ユニフォームのスポンサーマーク
1952年、資金難に苦しんだカープは、大下回春堂(現・フマキラー)から資金援助を受けました。
大下回春堂の大下俊春社長が、当時カープの球団取締役だったことが由来しています。
資金援助の見返りとして、ユニフォームの肩口に『フマキラー』の袖章広告が付けられました。
その後、袖章は1953年まで付けられました。
セ・リーグでは2006年から広告出稿が正式に認められます。
王シフト
左の強打者に対して、極端な右寄りのシフトを敷くことがあります。
今ではよく目にする光景ですが、その元祖は『王シフト』です。
王シフトとは、王貞治を何とか封じ込めようと白石勝巳監督が考案した奇策のことです。
白石監督は、左打者である王の打球が引っ張り方向に多いことを感じていました。
スコアラーや東洋工業(現・マツダ)の協力を得て、王のデビュー戦以来全打席の打球方向を分析します。
すると、7割がセンターから右方向との結論を導き出しました。
白石監督は『打球の7割が右方向なら、守備位置を右に寄せればいい』と考えたのです。
『流し打ちをされるのではないか』と反対意見もあったようですが、白石監督は『一本足打法はタイミングが命。流し打てばフォームを崩すはず』ともくろみます。
こうして、白石監督は王シフトを披露する時機をはかっていました。
1964年5月5日 巨人7回戦
小雨が降る後楽園球場には約4万の大観衆が詰めかけました。
理由もそのはず、王は前の試合から4打席連続本塁打を放っていて、この試合も記録が継続中だったのです。
ダブルヘッダーの第1試合、午後4時37分、王が第1打席に入ります
その時、白石監督は動きます━━
白石監督の指示の下、カープ野手陣が右に寄ります。
ファーストの藤井弘は一塁線ぎりぎりに、
セカンドの阿南準郎はファーストに寄って、
ショートの古葉竹識は二塁ベースの後方に移動、
サードの興津立雄は本来のショートの位置へ守備位置を変えます。
外野もライトの森永勝也がライト線のフェンスにピタリとつき、
センターの大和田明とレフトの山本一義も7~10mほどライト寄りに守備位置を移動しました。
この奇策こそが『王シフト』誕生の瞬間です。
どよめくスタンド。
打席の王は、大羽が投じた2球目を打ちます。
打球は、快音を発したもののファースト・藤井のミットにおさまります。
連続本塁打の記録が4打席で途切れ、大観衆に大きなため息に包まれます。
5打席連続本塁打を阻止しようとした、白石監督の執念が勝りました。
以降、他球団もカープの奇策を真似て、王シフトを導入するようになりました。
メジャー出身の外国人監督
カープの第8代監督に就任したジョー・ルーツ
1974年に打撃コーチとして来日し、翌1975年に監督に就任します。
選手としてメジャーリーグでプレーし、インディアンスでコーチも務めるなど、当時の日本プロ野球界では異色の経歴でした。
バレンタイン監督、ヒルマン監督、ブラウン監督などのパイオニア的存在ですね。
1975年4月27日 阪神2回戦
0ー0で迎えた8回、2アウト1塁3塁、フルカウント。
ピッチャーの佐伯が、掛布に投じた球はボール判定。
この判定に対して、ルーツは激昂し審判に暴行。
退場を命じられるも、それを拒否。
重松良典球団代表は、審判からの要請を受けてグランドで説得にあたる。
ルーツは、これが契約違反だと訴えて、まさかの電撃退団。
開幕から、わずか15試合での退団でした。
ですが、ルーツはカープに数々の革命をもたらしました。
その代表例が、チームカラーを紺から赤に変更したことです。
燃える情熱の色、戦う闘志の象徴という意味が込められていました。
ジョー・ルーツは、球界初のメジャー出身外国人監督でもあり、『赤ヘル』の生みの親でもあります。
先発ローテーション
近代野球のセオリーとなっている『先発ローテーション』
今では当たり前の考え方ですが、導入のさきがけはカープです。
1975年、ジョー・ルーツ監督が外木場義郎、池谷公二郎、佐伯和司の3投手を中心とした先発ローテーションを組んだことから始まります。
導入当時は3~4投手でローテーションを回しており、今よりも過酷な起用方法でした。
そして、この考え方は1980年頃には全球団へと普及しました。
投球フォームは人体の構造からして肩や肘に大きな負担がかかるので、登板間隔の確保は常識的な考え方となっています。
屋内練習場
今では当たり前となっている屋内練習場
マツダスタジアム併設のほか、大野練習場にもあります。
古葉竹識監督が『雨の日でも練習がしたい』と球団に懇願して作ってもらいました。
屋内練習場を12球団で初めて取り入れたのが、カープでした。
しゃもじ応援(メガホン)
しゃもじを使った応援は、広島の伝統でもあります。
カープだけでなく、古くは広島商業をはじめとする高校野球でも使われてきました。
しゃもじで応援する理由は、『勝利を召し取る(飯取る)』、打ち鳴らした時に『カチカチ(勝ち勝ち)』という音がするからです。
しゃもじが、地元・宮島の名産品だったことも大きな理由です。
今では、球団公認のグッズとしても売り出されています。
メガホンへの移行
応援グッズで真っ先に思い浮かぶのが、メガホンではないでしょうか。
- バットタイプ
- ダブルバットタイプ
- サムライスティックタイプ など
デザインや用途などで使い分けされています。
このメガホンの起源がしゃもじといわれています。
広島の伝統的なしゃもじ応援に目をつけたあるメーカーが、12球団それぞれのメガホンを売り出したところ、大ヒット商品として広まったのです。
ジェット風船
『ジェット風船』といえば、7回の攻撃前に飛ばす応援必須アイテムです。
世間では、甲子園でのカラフルなジェット風船の方が有名かもしれません。
そんなジェット風船ですが、発祥は諸説あります。
もっとも有力とされているのが、カープ発祥説です。
1978年5月13日 阪神6回戦 甲子園
5回、2番の木下富雄が阪神・先発の江本孟紀からソロホームランを放ちます。
その際、私設応援団『広島東洋カープ近畿後援会』のメンバーがジェット風船を飛ばしました。
これが起源だと言われています。
当初は、甲子園でカープの選手がホームランを打つとジェット風船を飛ばしていました。
いつしか、7回の攻撃前にだけ飛ばす、現在のスタイルように変更されます。
それから、阪神ファン ⇒ 他球団のファン という具合に浸透してきました。

トランペット応援
日本プロ野球において、応援スタイルの象徴とも言える『トランペット応援』
応援団が集団でトランペットを奏でる姿は、伝統的な応援スタイルですね。
1978年4月22日(土曜日)の巨人2回戦で、広島経済大学の学生3人がトランペットで応援したことが始まりです。
その後、他球団に広がっていきました。
選手の個別応援歌
トランペット応援をした広島経済大学の学生3人は、山本浩二ファンクラブのハッピを着てコンバットマーチを吹きました。
その後、ファンファーレなどのバリエーションを増やしていきます。
山本浩二ファンクラブの会長から、山本浩二専用の応援歌作曲の依頼が入ります。
依頼を受けた学生は、ジャズバンドをしていた経験を活かし、山本浩二専用の応援歌を作曲しました。
これが、個別応援歌の発祥となりました。
【関連】歴代選手別応援歌の追加年一覧|あの選手の個別応援歌も!
ドミニカ カープアカデミー
広島東洋カープアカデミーオブベースボール(通称:カープアカデミー)は、
1990年11月29日、松田耕平オーナー、バラゲール大統領らが出席した開校式で幕を開けました。
ドミニカ共和国の首都サントドミンゴ市から東に80km離れたサンペドロ・デ・マコリス市あります。
27万㎡という広大な敷地面積に4面のグランド、ブルペン、選手宿舎などを備えています。
マツダスタジアムの約5倍となる広さです。
総工費約6億円を投じて作った野球学校の建設は、日本球界史上初の試みでした。
アメリカから選手を連れてくるには、多額の費用が掛かります。
ならば自前で選手を育てよう━━
その一心、ドミニカ共和国に開校し、これまでに多くの選手を輩出しました。
主な出身選手 | |
投手 | 野手 |
C.リベラ | L.ペレス |
R.チェコ | F.ペルドモ |
E.レイノソ | A.ソリアーノ |
R.ラミーレス | A.ケサダ |
J.フェリシアーノ | E.フランコ |
V.マルテ | R.ロサリオ |
E.カリダ | X.バティスタ |
D.ソリアーノ | A.メヒア |
G.フランスア | J.サンタナ |
E.モンティージャ | R.コルニエル |
背番号0
ドラフト外でカープに入団した長嶋清幸は、球界初の背番号0を背負ってプレーしました。
カープが2年連続で優勝を逃した1982年オフ。
古葉竹識監督は、ゼロからのスタートの象徴として、入団4年目の長嶋の背番号を66から0に変更させました。
翌1983年から球界初の背番号0を背負った長嶋は、周囲の期待に応えて外野の一角に食い込み、レギュラーに定着しました。
その後、高信二、木村拓也、井生崇光、上本崇司と受け継がれていきました。
カープ歴代の背番号0
選手 | 期間 |
長嶋 清幸 | 1983~1990 |
高 信二 | 1991~1998 |
木村 拓也 | 1999~2006 |
井生 崇光 | 2007~2012 |
上本 崇司 | 2013~現在 |
ベースボールドッグ
2005年、突如として人気者が現れました。
ベースボールドッグの『ミッキー』です。
2005年3月12日 ソフトバンク オープン戦
球界初の試みとして、審判にボールを渡すボールボーイの役目を人ではなく、ゴールデン・レトリバーの『ミッキー』が務めました。
ファンサービスの一環として始めた取り組みは、とても好評でした。
2005年4月10日 ヤクルト3回戦
ミッキーが8歳の誕生日を迎えたこの日、公式戦デビューを果たしました。
2006年7月21日 オールスター第1戦
神宮球場で開催されたオールスターゲームでも大役を果たします。
広島市民球場以外でもありながら、大舞台にも動じず仕事を完璧にこなしました。
他球団への波及
ミッキー効果にあやかって、ロッテでもベースボールドッグ、オリックスではベースボールモンキーを採用されました。
老死
2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡しました。
4月14日の横浜1回戦では、マツダスタジアムの球団旗を半旗にし、哀悼の意を示しました。
球団歌の著名人リレー
毎年、カープファンの著名人がリレー形式で『それいけカープ』を歌う映像が製作されています。
2014年に始まり、試合開始前、7回裏の攻撃前などでマツダスタジアムのオーロラビジョンに放映されます。
カープの球団公式YouTubeチャンネルでも公開されています。

以上です。
カープには、これからも独自路線を貫いてもらいたいものですね!
お付き合いいただきありがとうございました。
すごいぞカープ!!!
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